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【第三話】松濤館の裏山はお城だらけ

 松濤館の裏山は発端丈山(ほったんじょうさん、ほんたんじょうやま)といい、標高410 mの低山です。『静岡の百山』として静岡百山研究会に選定されています。この発端丈山は古城の宝庫です。なんと3つの城と2つの砦(三津城、三津城北砦、三津新城本城、三津新城出城、発端頂砦)があるのです。
 南北朝時代(1337年 – 1392年)に鎌倉公方足利基氏への反発から挙兵した畠山国清(はたけやまくにきよ)がこの発端丈山に三津城を構えました。太平記には『三津城』の記載がありますが、さらに古い文献によると正式名称は『三戸城』のようです。1361年に国清は弟二人と共に、この三津城と金山城(伊豆の国市)、修善寺城(伊豆市)に立て籠もりました。この3つのお城を畠山三城と呼びます。三津城は弟の義煕に守らせました。国清自身は修善寺城を拠点としていましたが、挙兵の翌年には足利基氏の軍勢に降伏しています。三城の中で最も粗末な造りであった三津城は、最初に攻め落とされたと言われています。三津城にははっきりとした遺構はありません。頂上に方形の平場があるだけです。
 三津城の主郭(発端丈山山頂)から北に200m程の位置に三津城北砦があります。小さな主郭と腰曲輪、浅い堀切から成る単純な構造の砦ですが、こちらは三津城と違い堀切や腰曲輪がはっきりしています。位置的に三津城と連携していた砦と思われます。
 さらに、三津城から600m程北東の尾根上に『三津新城』があります。三津新城は、1984年に静岡古城研究会によって確認された城です。三津新城は、その遺構から考えて、明らかに三津城や北砦より新しい時代に造られた城で、戦国時代の北条氏の城と考えられます。北条氏が武田水軍に備えて長浜城などを整備した頃に築かれた城ではないかといわれています。
 三津新城には、本城と出城があります。本城には多くの遺構が残っています。平坦な主郭、腰曲輪群、段曲輪、井戸跡、虎口、矢穴の跡の残る石などです。主郭からは木々の間に長浜城を望むことができます。出城は本城より50m程高所の尾根先端に築かれています。主郭、腰曲輪、二重堀切があります。
 三津城跡の北に発端頂砦があります。詳細は不明ですが、こちらも戦国時代の北条氏が築いたといわれています。発端頂砦は、上下2段の主郭、曲輪、堀切があります。発端頂砦と三津新城(本城、出城)は、武田氏と対立したことを受けて、海路での内浦湾からの侵入に備えて1579年に築かれたといわれています。船でやって来る敵を発見し韮山城にいち早く伝え、襲来を食い止めるために築かれたと思われます。今でも稜線の途中から韮山城をしっかり望むことができ、狼煙などで敵の襲来を伝えることがこの砦の使命であったことがよくわかります。
 発端丈山は松濤館近くからハイキングコースがいくつか設定されていますので、古城のお好きな方は散策されてはいかがでしょうか。